2025.06.08

徳川将軍5,6,7,8代

野下晴夫

徳川将軍5代徳川綱吉
四代将軍家綱の死後5代将軍に徳川家光の四男綱吉を強力に推した老中が堀田正俊です。一方大老の酒井忠清が押したのが京都の宮将軍でした。結果的に徳川綱吉が5代将軍になり、酒井忠清は罷免されます。そして政務は堀田正俊を中心に進行し緊縮政治となり幕府の安定化につながります。しかし堀田正俊は若年寄稲葉正休に殺害されます。その後政務の中心が綱吉と側用人柳沢吉保に移行していきます。綱吉政治の後半に発令した「生類憐みの令」の悪法は生母桂昌院の進言によるものです。最盛期には江戸で保護された犬は42000頭に及びこの費用は幕府の財政を圧迫したと言われています。赤穂浪士の事件が起こり綱吉は切腹には乗り気ではありませんでしたが柳沢吉保が荻生徂徠の理論を披歴し切腹を命じたと言われ綱吉に意見したとのことです。吉保が綱吉に反対意見を述べたのはこの件だけと言われています。それほど吉保は綱吉に評価されていました。


徳川将軍6代徳川家宣
徳川家宣は徳川綱吉の兄の甲府藩主綱重の長子でした。綱吉に将軍を継ぐ男子がいないため六代将軍になりました。17歳の時に綱重の後の甲府藩主となりその後48歳で六代将軍になりましたが将軍の中では最高齢就任となりました。家宣の功績は綱吉の評判の悪かった「生類憐みの令」を綱吉没後10目で廃止したことです。綱吉は遺言で「生類憐みの令」は100年は続けるようと言っていたようですがこの廃止により8600名が赦免されたようです。綱吉政治を払拭するために綱吉時代の老中を解雇し新たに甲府藩主時代の右腕新井白石を登用し新たな政治を断行しました。
7年間と短い将軍時代でしたが新井白石が七代将軍家継をも補佐していきます。


徳川将軍7代徳川家継
徳川家継は六代将軍家宣の子供でした。家宣には6名子供がいましたが早くに亡くなり家継だけが残りました。生母はよく小説に出てくる月光院です。家宣は家継が幼少の為次期将軍には尾張の徳川吉通を推していましたが新井白石の助言で家継の将軍が決定しました。時に4歳でした。家継は将軍の素養を満たしているとの評判が高かったのですが生まれながらにして体が弱く8歳でなくなりました。政治は新井白石や間部詮房が補助しました。この時代には「江島生島事件」が発生し大スキャンダルになっています。将軍の生母月光院と家宣の生母天英院との確執は良く小説で取り上げられます。興味のある方はお読みください。


徳川将軍8代徳川吉宗
徳川吉宗は紀州藩主二代徳川光貞の四男として生まれました。頼方と名乗りましたが光貞からは捨てよと言われたぐらい冷遇されていました。14歳で徳川綱吉に対面し三万石の大名に取り立てらました。紀州藩主三代綱教、四代頼職が相次いで亡くなり22歳で紀州五代藩主となり徳川吉宗を名乗りました。とてもラッキーなことが続き33歳で紀州藩の財政立て直しが注目され徳川八大将軍となりました。吉宗の功績は財政破綻状態の徳川幕府の財政再建に注力したことです。いわゆる「享保の改革」です。質素・倹約をベースに経費削減を図りました。「足高の制」、「目安箱の設置」、「江戸の行政価格」等も目玉でした。又諸大名から石高の1%を徴収し、そのかわり参勤交代を半年延長するなど新しい政策を導入し幕府の安定収入を得ました。時代小説ではよく登場しますが将軍としては抜群の働きをしたようです。

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