2025.07.07
徳川将軍第9、10、11代

東京支部 野下晴夫
徳川将軍第九代 徳川家重
徳川家重は吉宗の嫡男でしたが35歳になって将軍職を譲られました。本来はもっと早く譲る予定でしたが、家重は生まれつき虚弱なうえ言語障害があり、さらに酒食に溺れる傾向があり吉宗にとっては不肖の息子でした。吉宗の次男の才気煥発な宗武を次期将軍に押すという意見がありましたが、長幼の序を守るのが第一と考え家重が将軍になりました。言語障害がありましたが唯一その言葉を理解できる大岡忠光(大岡忠相の遠縁)の手を借りて政治を行い、見事一代を保ったと言われています。将軍職の人材確保を狙い吉宗は、次男宗武を田安家、四男の宗尹を一橋家の初代として創設しています。家重の時代には家重の次男重好を初代清水家として興しています。15代将軍はこの後吉宗の子孫が後を継いでいきます。
徳川将軍第十代 徳川家治
徳川家治は家重の嫡男の為将軍職を引き継ぎました。吉宗は孫の家治を可愛がり、幼少のころから帝王学を授けました。家重は遺言で田沼意次を重用するようにと残していました。この遺言に従い田沼意次は家治の側用人になり、皆様ご承知のとおり今までの米中心の経済から重商主義を唱えた百八十度転換した政策に変わります。田沼時代は賄賂等がよく小説の話題になりますが、専売制度の拡張、株仲間の積極的な公認、貨幣改鋳、貿易拡大、新田開発、蝦夷地開発等を導入し、倹約生活から経済発展を期待する税収増加対策を陸続として打っていきます。意次の政策は商品生産を活発にしましたが、庶民の間に貧富の差が広がり百姓一揆や打ちこわしが続発し、天明の飢饉が追い打ちをかけ社会が混乱し意次は罷免されます。時代小説では良く題材に使われ、松平定信の人事も絡みこの時代は何かと話題が多く、小説も興味深く読むことができます。
徳川将軍 第十一代 徳川家斉
第10代将軍徳川家治が亡くなり、次期将軍の声が高かった家治の子徳川家基も亡くなった為、一橋家の豊千代こと家斉が11第将軍になりました。老中には松平定信が就任しました。松平定信は田沼意次を排除し享保の改革に取り組みました。重農主義から米中心の緊縮財政を目指しました。このころ幕府は破綻状況でしたので松平定信の改革が期待されましたが、余りにも緊縮のための措置に民衆の不満が爆発し、定信は更迭されます。徳川家斉の正室は薩摩藩主島津重豪の娘茂姫でしたが、家斉は好色家で側室は22名、子供は50人余りで大奥の経費だけでも財政を圧迫したと言われています。50年と長期の将軍期間でしたが放漫政治でもあり、国は一揆等が多数発生し大混乱となったようです。