2025.04.01

徳川将軍

野下晴夫

徳川将軍初代家康
徳川家康と豊臣秀吉の女性観は対照的です。秀吉は身分の高い美貌の女性を手に入れる性癖がありました。信長の姪の淀殿を始め前田利家の娘、蒲生氏郷の妹、宇喜多直家の未亡人等上流階級の評判の美女ばかりで手に入れるために手紙を書いたりしあの手この手で側室にしたようです。家康は下級武士や町人の娘、子持ちの未亡人等を側室にしました。このことは家康は丈夫な子供を沢山生める女性を求めた結果と言われています。しかも身分の低い女性は側室にしても金がかからないという実利もあったようです。結果的に徳川家康が戦国の世を勝ち抜きましたが多くの子供に恵まれた家康の勝利です。秀吉には成人した秀頼しかいなかったのです。

徳川将軍2代徳川秀忠
2代将軍秀忠は家康の三男でした。上二人が死んだり、他家へ養子に出されたために2代将軍になりました。秀忠の結婚の相手は浅井長政と信長の妹の市との間に生まれたお江でした。お江はバツ2の年上女房でしたが秀忠の間に千姫、家光、忠長、子々姫、勝姫、和子と6人の子供が誕生しています。お江は最初の結婚で一人、次の結婚で二人生んでいますので相当な多産です。秀忠は恐妻家で側室を置きませんでしたがただ一度浮気をし誕生したのが家光の異母弟となる名将保科正之です。秀忠は家康の死後多くの大名を改易し徳川幕府の基礎を固めたとして評価されています。

徳川将軍3代徳川家光
徳川家康の将軍は将軍の長子が継承するという宣言で将軍になった家光は弟の徳川忠直を廃嫡までもっていきます。家光に厳しい態度で臨んだ側近は全て排除されていきます。松平信綱、阿部忠秋、堀田正盛、三浦政次、阿部重次、太田資宗の六人衆が政務の中心となります。家光の功績は「武家諸法度」の改訂を行い幕府の政治を安定化させたことにあります。後継者作りには色々問題があり乳母の春日局が苦心したことも事実ですが苦労のお陰で家綱、綱重、綱吉と男子が誕生しています。政務では島原の乱が起きその後キリスト教の脅威を根拠にして鎖国政策を更に推進していく時代でした。時代小説では家光時代をテーマにしたものが多くとても興味深いものがあります。

徳川将軍4代徳川家綱
徳川家光の死去に伴い長子である家綱が11歳で四代将軍になりました。生まれつき病弱であったことや11歳であったことから政務は家光以来の松平信綱、保科正之、酒井忠勝、阿部忠秋らが中心となり推進していきます。由井正雪の乱や明暦の大火があり幕府の危機がありましたがなんとか側近の力で災厄を乗り切っています。病弱ながら若くして将軍に就いたこともあり約30年の在任期間がありましたが長子を設けることが出来ず五大将軍選びが大きな混乱を引き起こします。

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