2025.07.28

徳川将軍第12,13,14,15代

野下晴夫

徳川将軍 12代徳川家慶
徳川家慶は家斉の次男でしたが長男が早くに死亡したことから12代将軍となりました。11代家斉の将軍在職が50年余りであったことから将軍についたのは45歳でした。しかも家斉が大御所政務を行ったことから実権を行使できませんでした。家斉の死後放漫政治を改め緊縮財政を目的とする政治に移行するために水野忠邦を筆頭老中として起用し天保の改革に取り組みます。倹約令と風俗統制令を出し奢侈に流れた風潮を改めました。この時期に良く登場する人物が鳥居耀蔵であります。市中取り締まりにおいて鳥居耀蔵の厳しさは苛烈で市民に恐れられたことで有名です。天保の改革は頓挫しますがこの時期ペリー来航で幕府を揺るがす事件になっていきます

徳川将軍 13代徳川家定
ペリー来航という大騒動のさなか12代将軍家慶が亡くなり、息子の家祥が家定と改名し13代将軍となりました。家定はかねてより奇行が目立つことに加え病弱で世子の誕生が期待出来ないことから、就任早々次期の将軍の継嗣問題が持ち上がりました。テレビでおなじみの篤子姫は亡くなった二人の御台所の後を受けて三人目の御台所となりました。次期将軍には徳川慶喜を推すという使命を受けて入台したと言われています。最終的には紀州藩主の徳川慶福が14代、徳川慶喜が15代になるのですが南紀派と一橋派の壮絶な戦いがあったようです。家定はペリーの要請を受けハリス領事と面会した最初の将軍です。以後これが先例となりロシア、オランダ等の列国と謁見するようになり日本の外交の先駆けとなっています。 

徳川将軍 14第徳川家茂
13代将軍家定には長子がないことから紀州藩主であった徳川慶福が家茂と改名し4代将軍となりました。家茂の治世は大老井伊直弼の強権によって幕をあけます。将軍就任直前に朝廷の勅許を得ないまま結んだ日米修好通商条約が爆弾となり安政の大獄や桜田門外の変、坂下門外の変など尊王攘夷運動が活発化します。和宮降嫁も尊王攘夷運動を促進します。長州藩が幕府打倒に動き出したのもこの時期です。長州征伐のために出陣した家茂ですが大阪で病がもとで亡くなり、これを契機に幕府崩壊が近づいてきます。            

徳川将軍 15代徳川慶喜
徳川慶喜は水戸藩主徳川斉昭の七男として誕生しました。幼少のころから英明を謳われ、その胆力と聡明さが12代将軍徳川家慶に見込まれ次期将軍候補として一橋家へ養子に入ります。13代家定の継嗣候補として家茂と争いましたが、この戦いに敗れ井伊大老により謹慎処分を受けます。ところが井伊大老が凶刃に倒れたことで謹慎をとかれ家茂の将軍後見役となります。その後朝廷を守護する禁裏守衛総督になり大活躍します。家茂は自分の後は慶喜に譲ると言っていたと伝わっています。家茂は大阪で急死し慶喜が15代将軍になりましたが既に幕府は瓦解寸前でした。1867年慶喜は大政奉還を朝廷に提出しここに265年続いた徳川幕府が幕を閉じました。1868年幕府と薩長の鳥羽伏見の戦いが起きましたが薩長の圧勝となり、その後の明治政府に移行したのは皆様ご承知の通りです。

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